【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《植村直己》 =047=

2017-11-05 06:24:28 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆  北極点単独行—-冒険家にとっての記録 =3/5=  ◇◆   

 3月23日頃までの、アラート基地との交信では、泣き出さんばかりの植村がいる。 もちろん、いたずらに弱音を吐くだけの男ではないけれど、沈黙がちの植村から、この行程のすさまじさが推測できた。

 23日まで、18日間かけてようやく50キロ、それから少しはかどって28日までで約100キロ。 目算では1日20キロから40キロは進みたいところだったから、旅程は大幅に遅れた。 それにしても、鉄棒1本で乱氷と格闘する姿は、記録を読んでいても痛ましいほどである。植村自身も、俺は何のためにこんなことをしているのかと、頭をかかえこむ日もあった。

 そして出発早々、3月9日に白熊に襲われて、かろうじて生きのびることができたのである。 3月9日の明け方。 犬の鳴き声が止み、犬の足音とはちがう響きがきこえた。 はっきりと目が覚めた瞬間、異様な鼻息がきこえ、足音からすると10メートル離れていないだろう。

 ライフルはシュラフの横に置いてはあるが、弾をこめていない。 起きあがって弾を装填すれば、その音で白熊はまっすぐこっちに向かってくるだろう。それに出発前にライフルの手入れをするのを怠っていた。 照準も合っていないし、もし油が凍っていれば、弾をこめても発射できない。

 植村になすすべはなかった。犬たちが白熊に向かって吠えかけ、白熊を釘づけにしておいてくれれば、何かできるかもしれないが、犬の鳴き声はまったくしない。

 足音が近づいてきた。枕元のすぐ外で、臭いを嗅ぐ鼻息がし、巨大な足がテントの上から横向きの植村の頭を押えつけた。ああ、俺は死ぬ。「公(きみ)ちゃん、俺は死ぬよ」と、この瞬間公子夫人に心のなかで語りかけた。

 しかし白熊は、テントを揺さぶり、部分的に裂いたけれど、植村の体に直接襲いかかりはしなかった。テントの外で、アザラシの凍肉を食べ、鯨のラードを食べ、犬用のペミカンを食べ荒した。

 絶対に身動きしてはならない。 呼吸音にさえ、気づかれてはならない。 植村は全身にふき出すような汗をかきながら、身動きせず、長い長い恐怖のときを過した。 不意に、足音が遠ざかっていった。 白熊がゆっくりテントから離れていった。助かったのだ。 状況からすれば、奇蹟的に、といってもよかった。

 植村はしかしあわててテントの下から這い出そうとはせず、十分に時間を置いてからシュラフのファスナーをはずした。テントの外に出てみると、「輪カンジキほどの大きさの、爪の方が広く踵の方が小さい白熊の足跡が点々とついていた」。ドッグフードの入ったダンボールがひっくり返され、鯨の脂肪を入れたポリバケツが、紙屑のようにズタズタに切り裂かれていた。

 1974年から76年にかけての北極圏一万二千キロの旅でも、何度か白熊に遭遇したが、このように不意打ちにあったのは初めてのことだった。肝が冷えるほどの恐怖を植村は体験した。

 翌3月10日。 味をしめた白熊は、再びテントをめがけてためらうことなくやってきた。 植村はライフルに手入れをし、再襲来にそなえていた。 何発か銃を発射し、この白熊を仕止めた。 また、襲われた3月9日に、アラート基地と交信。 3月10日には飛行機が来て、予備のテントをはじめとする必要物資を投下していった。

 翌3月11日。相変わらずものすごい乱氷に行く手を阻まれながら、植村はこんなふうに書いている。 《心をひきしめて、自分自身をとり戻さなければ。きびしくとも、現状を正確に把握し、反省し、そこから勇気を奮い起すのだ。大体、こんな目にあうのも、どこか準備に手ぬかりがあったからではないか。あるいは準備の手順の立てかたが間違っていたからではないか。》

 いざというとき、物事をできるだけまっすぐにとらえて、自分自身を立て直す。 これまでの冒険でも何度も見てきた植村が、ここにもいる。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=ドゥーガル・ハストン(2/2)

スコットランド最強のクライマーと呼ばれるようになったドゥーガルは、’63年にアイガー北壁、’64年にドリュ西壁などを登り、引き続き向かったグランドジョラス北壁でジョン=ハーリンと出会います。この時は天候悪化で敗退したのですが、この出会いがきっかけで、彼は’65年のクリスマス前、アイガー北壁ダイレクトルート冬季初登攀に誘われます。

その登山は’66年3月に、ドイツ隊と競合し、最後は協力しあって成功します。 しかし、ここでジョン=ハーリンが墜落死し、彼はジョンが経営していた、スイスのリゾート地レイザンの登山学校を引き継ぎます。 以後スイスを活動拠点にします。
(余談ですが、彼は’63年に大学を中退し、’65年4月にまた交通事故を起こして60日間収監されています。 以後彼の笑顔を見る機会は一層少なくなったそうです)

彼はスイスに行っても自堕落な生活が治らず、クラブ・ヴァカボンドという酒とドラッグが溢れているところで毎晩酔いつぶれていたそうです。 そんな中でも’68年にはパタゴニア・セロトーレ、’69年にはヨセミテ(このときの記録はダグ=スコットの『ヒマラヤンクライマー』に出ています)に遠征し、地元アルプスで冬季登攀したりしています。

そして’70年、クリス=ボニントン率いるアンナプルナ南壁の初登攀、’755年エベレスト南西壁初登攀、’76年マッキンリー南壁初登攀に成功します。 最盛期といっていい活躍ぶりですが、エベレストではピーター=ボードマンらの強さを見て取り、自分がいつまでも第一人者ではいられないと自覚したのか、この頃から小説を書いたり、登山学校のカナダ支部を設立するべく準備します。 しかし、’77年の1月18日、近郊の200m級の山、ラ・リオンダーツ北東壁のスキー滑降に出かけ、雪崩に巻き込まれて遭難死します。享年36歳。

一見華やかな登山人生の彼ですが、どこかアウトロー独特の暗い雰囲気が醸し出されています。 女性関係も単純ではなかったようで、破滅的な生活を送った挙句の死に方という気がしないでもないです。 組織登山においてもきちんと結果を残し、晩年は生活に変化も見られたようなので、もっとこれからの人生を見せて欲しかったようにも思うのですが。

しかし、彼の功績は登山史上にきっちりと名前を残している立派なものです。 彼の名前を知らなかったという人は、これを機に明と暗双方の角度から彼を知ってください。 それによって何かを学び取ることができれば幸いです。

動画資料: Mount Everest, "Hard way"  =クリック➡

https://youtu.be/XGebNw5eH1E 

動画資料: Chris Bonington : The Everest Years (c.1985)   =クリック➡

https://youtu.be/BgYKVmfck-s  

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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【壺公夢想;如水総覧】 :http://thubokou.wordpress.com

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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